12/7 FB こころとは2

立て続けに。

■脳の一部が死んでしまい,麻痺が生じた人が,医師には「回復の見込みがない」と言われたにも関わらず,家族の献身的な看病のおかげで自分で立てるまで回復したという事例をTVでみました。医師がそのように言ったということは,医師は「そのようなケースで回復する事例はない,あるいは物理的に無理」と判断したということですよね?ならば,「不可能」を「可能」にするために何かの力が作用したのではないでしょうか。「妻がこんなに頑張ってくれているのだから,残っている脳のここを働かせてみよう」なんていう風に。

⇒2つの点で恐ろしい…。
1.「ある一人の」医師が不可能といったことが,医学的に本当に不可能かの保証はどこにあるのでしょう。肩書を簡単に信じてはいけません。
2.「妻の献身的な看病で脳機能が回復」その因果は本当に正しいのか?私のオットが脳疾患で倒れて,機能が十分に回復しなかったら,私の献身性(愛?)が疑われちゃうわけ??やだなぁ。後半の「妻がこんなにがんばってくれているのだから云々」からは,オットの愛が十分でないから妻(私)の献身に応えてくれないのね!?という攻め方も可能になるわけだ…。やだなぁ。

リハビリとは,「従来使われていなかった機能を使えるようにする,新たな回路を作る,あるいは元あって今は寸断された回路を再構築する訓練。そのために適切な刺激を筋運動を通して脳に送っている行動」です。代替機能が発現したという状況には,そのプロセスにオットにどんな思いがあったとしても,妻にどんな思いがあったとしても,関係ありません。
ただ,辛いリハビリを頑張り続ける動機づけにはなったでしょう。でも,動機づけでなんでもできるようになるわけではありません。これは一種の根性論だって気が付いてますか?

認知症の人が親しかった人を認識できなくなるのは,こころの機能が原因でしょうか?
⇒いいえ。脳の委縮が原因です。

■こころの働きのおかげで,本能的行動が生まれたりはしないのだろうか?
⇒より高次な認知処理によって,より低次の(原始的な)行動が発現する,というのはヘンですね。大脳皮質を持たない生き物には本能行動がないことになっちゃいます。

本能的行動なのに,それに対して「より高次な精神活動」が理由だと誤解することはよくありますね。
刷り込みによって犬の跡をつけているだけなのに,「うちのカモちゃんは,犬に暖められたことを判っていてお母さんだと慕っている!」なんて具合に。カモの本能的行動に対し,人の精神活動(こころ)のような高次精神活動を勝手に投影している例です。
前にも言いましたが,より低次な仕組みで説明できるものは,無理やり高次なもので説明してはいけません。

■同じ授業を受けていて同じ情報を得ていても,ここまでみんなの意見が分かれるのか!
⇒同じ授業を受けていても,同じ「情報」を得ているとは限らないんです,これが(涙目)。言ったことを,言ったように理解してもらうことは不可能だと最近思っています…。人は自分の知りたいこを「知りたいように」「自分の理解できる範囲で」しか理解しようとしない生き物です。ヒトのことが解ればわかるほど,この社会がなりたっているのが本当に不思議です。美しい誤解の上に世界はある。